昭和52年2月28日 朝の御理解
御理解第31節 「信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を 言う心持ちになれよ。」
信心を段々分からせて頂くと本当にお礼を申し上げねばならないことばっかりに驚くばかりです。しかも限りがないのです。三代金光様がお礼のためのお詫びばかりを申して降りますと仰っておられます。ここのところに極まってくるんじゃないかと思いますね。本当にそれこそ、あれにもこれにも一切おかげ、おかげとして有り難い有り難いとして、お礼を申し上げる。そのお礼を申し上げる心におかげがある。だからおかげを頂かなければならんからお礼を申し上げるというのではないのですけれども、本当にそれをおかげと感じたときにお礼。ですから、何か、与えられたとかもろうたと言う時だけにお礼が皆が申しますけれども、日頃の都合のよい事になったときだけお礼を申し上げますけれども、それではお礼がたりない感じが致します。それでは本当ではないと思います。
例えば甘い物の時にはお礼を言う。苦い物の時にはただ苦い顔をするだけ。苦い物の時にもお礼をが言えれる。そこでやはりあの、まあ、苦い物であってもそれがどうその苦い事柄とか苦い事がおかげに作用してきたかと分からなければ御礼が言えない。けれどもおかげで胃腸が健全になりますとか、ね、例えばニンニクなどに臭い物をそれでもやはり辛抱して頂いておりますと、体が健全になります。臭いから苦いからというてその、お礼が言われんといったようなことではいけん。お礼が言えれるためにはちょっとお礼の言われる事実をつきとめて、初めて御礼を言う事になるのですから、昨日、(?)色々な行事があっとりまして、霊祭が二つございますか、伊万里の竹内先生のところの霊祭それから椛目の(?)のところ式年祭、式年祭が二つ一時からと、四時から、敬親会がそれに初の、朝参りの御礼のお届けがやはり時間をきってあったですけれども、昨日は一日お使い回しを頂いたのですけれども、昨日、あれは、最後の霊祭を使えてから直会のときでした。若先生がこの頃、それはなんですかね、こんな大きなあの、野菜っを(?)をするきかいを頂いておる。ミキサーがついていて、あらゆる果物(?)あろうが、野菜の(?)みかんの皮まで色々絞って(?)頂くのです。ですからあの、レモンの、今までは(?)それから、病気なんかの時でもたいへん皮でも香が良くて美味しいのです、食べ物の苦いけん辛かと思いよったら、たまねぎじゃったという。それでなら、私と家内と繁雄さんと高橋さんと四人だけかと思うておった。そしたらうちのもの四人頂いておった。それであの親先生、そお、あればのむごとなってからちった変わられ、変わった事があるかとこういうけれども、私は今までもお通じが日に一回は出ておるが、二回も(?)私はその、効きよるか効きよらんか分からんもん。ね。けれども私はいつもあれを頂く時に本当に、今まではお野菜やらあまりに頂きすぎてからお粗末になっておるのを良く知っておりますからね、おかげでそれこそ野菜の切れ端から、それこそあの、レモンの端々なんかも捨ててしまうのですけれども、それからね、例えば今言う、メロンなんかはそりゃ食べませんよね、捨てるのが普通ですけれども、この機械を頂いてからというものは、そういうまでが皆、その、(?)絞られて朝晩食膳にでるわけなんです。ですから私はそれを頂くたびに、目にあまるようにお粗末になっておったものが、全部お役に立たせて頂いておるというのただお礼を申し上げるだけなんです。
(?)そりゃ効くでしょうあれだけやっぱあれだけもう、キャベツなんかはもうあの、葉っぱのできるだけ青いところだけが良いというて、修行生の誰かがお供えをしておられる時には、側たんからお供えをなさる。今までは普通だったのがかえっておかげを頂いておる。ね。それで私は毎晩頂くのにそれが一番の御礼なん。いわゆるそれこそ、青くさくて辛くて、苦くて臭かったり色々なんです、毎日あれが違う、お野菜が違う。けれどもそれだけお粗末になっていないことを私は本当に感謝してから毎朝頂くのです。だからそれが例えば、通じが悪かったのが、通じが良くなるならそのことに対してお礼を言えれるでしょうけれどもです、その、何かそこに突き止めてそしてそれをおかげと感じられなければ御礼というものは言えるものじゃないということ。ただいきなり有り難うございますありがとうございますというておるだけじゃいかん。
乗ってきた車にでも履いてきた靴にでもね、お便所を使わせて頂いたお便所にでもそれは当然のことなんだ。それにお礼を言う事はね。ね。信心させて頂くものは、それは当然のこととして御礼を言わなければならんけれども、昨日は神戸の昨夜私、ここへ12時ちょっと前に出てきましたら、手紙が来ておった。開かせて頂いたらあの、神戸の和田さんの(?)神戸から何回かお参りをしてまいりまして、大変な子供さんが何というでしょうかね、まあ、異常なんです。それこそ母親を部屋に監禁してからその、(?)まだ中学生。もうちょっとあの、大人しい時もあるかと思うと、そんな無茶な事をするという子供さんのいわゆる、お母さんから和田さんを通してお礼が来ております。そのお礼が唯、手紙が今度、中学から高校に入学をして見ることにお願いにみえておりました。和田さんと一緒に。ね。ところが、高校に試験を受けたけれども落ちたのです。その落ちたお礼が来ておるのです。開いて見ましたら中に五千円をお金が入っておる。
大体、今日御礼に出るはずでしたけれども、風邪をひいて出られなくなったから、とりあえず、(?)御礼参拝をさせて頂きますという、色々、試験に落ちたおかげでこういうおかげになりました、こういうことが分からせて頂きましたというお手紙でした。それこそ、試験に落ちたことで子供が非常に信心となったと言う事です。私は思うのに、信心するものは木の切り株に腰をおろしても立つ時でもお礼をいう心持ちなんだ。
だからそれこそ自分が使用させてもらう、使わせてもらう全ての事柄にお礼を言うのは当然のこと。そういうお礼が本当にできるようになったらおかげを頂くけれども、もうそれこそ、木の切り株というならば、いらんもののようなもの。いままでは当然のように思うておったものが、それどころか反対に自分が苦い思いをしたというような、ことにですらお礼が言えれるそれでいてもなおかつ金光様じゃないですけれども、御礼の足りぬお詫びばかりをさせて頂いておりますという時に私はお礼の完璧と言う事になるのじゃないかと思います。どんなにお礼を申し上げてもお礼を申し上げても足りないのじゃ。
そのお礼の足りないお詫びばかりをしております。当然お礼をしなければならない事にまず、お礼を言えれる信心を頂きたい。いわゆる心行というのは、神様をかけ続けにかけ続けさせて頂いて、今まで(?)になっておったお粗末になっておった事に対してでもお詫びやらお礼ができれるというところに信心の値打ちがあるのです。ね。そしておかげを頂いて、苦い物を頂いても臭い物を頂いてもおかげで苦いもののおかげで胃腸が強くなるとか、臭い物を頂いてかえって躰が健全になったとかそこんところを突き止めさせて頂く時に苦いけれども、臭いけれども、お礼を申し上げねばおられない。そこに私共が信心をさせて頂く者の御礼ということがはっきりしてくる。
こんな苦い物が食べられるか、これは食べ物だけのことだけではありません。苦い事柄とかもあります。嫌な事柄もあります。もう日々(?)になることもあります。そういう事に対してでもです、私共信心追及を怠ってはならないと言う事がです、損したおかげでこういうことになる。私は今日は今朝ある方の事を、お商売をなさっておられる方です。始めの間は調子が良かったのですけれどもこの頃からずっと赤字が続くのです。ところがその赤字が続くようになってからその方の信心がしみじみとした本当のところにどんどん入っていかれるのに、私は有り難いと思うております。ね.調子の悪い時にははあ、金光様ありがたか、御利益を頂く、有り難い有り難いといいよった、その有り難いというのは本当のありがたさではなかった。ところが反対にこの頃はまあ不景気の波とでも申しましょうかね、ちょっと、赤字が続いておる。
おかげでいうならば信心がしみじみとできてくるようになった。そこで、本人のかたからか、また聞きもしませんけれども、おかげで信心ができますというように気付かれたら、そこんところに気付かせて頂いたら、おかげじゃがなあと思うたら、大阪に通天閣というのがあります。通天閣というのが。通天閣と頂いたのです。ね。(?)から一生懸命の信心が出来よる。というだけではいかん。苦しい、おかげで信心が出来ますとお礼が言えたときに通天閣。天に通じるんだとそれが。ね。信心はそのへんのところがありがたいです。ね。昨日の、初代の石橋先生のお話の中にありますようにご承知の方もありましょうけれども、二代を継がれた先生は子供の時に高いところから落ちて、普通で言うならばまあ、普通じゃないわけですね。
けれども神様に向かわれると大変な御祈念力を持っておられる方ですが、石橋みつお先生と申しましたですね。もうなくなられましたけれども。まあ、普通で悪口をいうならば馬鹿息子というところでしょう。ある、御大祭か何か、いうならば小倉の桂先生のお弟子さん方がそれこそ偉い先生ばかり、(?)のように並んで御直会が始まった時に、桂先生が石橋先生に(?)と仰った。石橋さんあんたの息子は馬鹿じゃねと仰った。大概のものなら皆の前で言われると顔色が変わりますよね。ところが親先生おかげで信心が出来ますと仰っておられます。石橋さんでかしたというて、一番先にお酒を注がれたというお話が残ってます。馬鹿でどうあるかと。本当いうたら言うてもよかとこ。お前が教えなならんぞというてもいいところですけれども、次にこのことのために自分が修行が出来るこのために自分が信心が出来よると実践実験しておられるから、そういう場合であってもとっさに親先生こうやって信心が出来ます、石橋さんでかした、ね、桂先生が願っておられたのはそこだったのです。私なら、この頃お商売が(?)。ところが最近は赤字赤字が続いておるがおかげで信心が信心となってきた。いうなら、信心が信心となってきていうならば、今まで分からなかった信心が分かってくるようになったら、おかげで信心が出来ますというお礼になってこななけりゃならんのですけれども、本当にこれだけ信心しよってどうして、(?)じゃろうかというような気持ちのほうが強いわけ。
それでも苦しいから一生懸命参ってきはきよる。一生懸命参ってきよるから信心の奥峨へ奥峨へと進んでいくことが出来る。だからそこに気が付いてお礼が言えれるようになって来たときに、通天閣と仰る。ね。石橋さんでかしたと、一番口に杯をさせれるようなおかげの前提にあるときです。苦しい時には。ね。だから信心はやはり追求を惜しんではならんとおかげを受けりゃどうしてじゃろうかと、どうしてじゃろうかと本気で神様にもっていかなければならんのです。もう、信心しよったっちゃ大したことはなか。ね。おかげを頂いた事はあれはふがよかったじゃろうというくらいで信心を止める人すらあるくらい。(?)がもうそれこそ、一歩でも無駄にさせんと仰るのですから、もう一歩でもと言うことは、そう云うときに、前進していく、そういう姿勢を作ると言う事なんです。
ね。私が毎日野菜汁を頂かせてもらうけれども、体に効きよるか効きよらんか分からん。若先生は大変通じが良くなったというて、お礼を言うておる。私はいっちょん効きよらんけんで、一つも効きよらんけんで、こげんのみにくかとは止めようと思いよる。というのじゃないです。私はあれを飲み続けよる限り、合楽にお野菜の切れ端までお粗末にならんで済むと思うから御礼を申せる。そういう場合でも、これ飲みにくかったじゃならんなと思うわけなんです。そこが分からなければお礼にならないでしょうが。ね。今日私は着の切り株に腰をおろしても信心するものはね、立つ時には礼を言う心持ちになれよと何でんかんでんお礼を言う。乗ってきた自動車でも、下駄にでも、使わせていただくいうならばお手洗いにでもお礼をいうのは当然の事。その当然のお礼すらが出来ていない。
少し、苦い思いをしなければならない。少し臭い思いをしなければならない時にはもう不平を言うておる不足を言うておるといったような事ではおかげにならん.通天にはならない、神に通じない、それでは。ね。
自分が苦い思いをする事があってもよくよくその苦い思いの内容というものを追求するとそれこそ涙してお礼を申し上げねばならないものが神意、御深慮がそこに含まれておるのです。それを分かったときに苦しいございます、けれどもおかげで信心が出来ますというお礼が言えれるようになった時に、石橋さんでかしたと、天地乃親神様がそれこそね、分かってくれたか、という喜びが次のおかげに飛躍していくのです。いわゆる、通天、神に通じる。ね。私は真心とは本当なこと、真の心というのですから、本当のことが分かった事と今日は聞いて頂きたいと思う。
ね。真心で通じないはずはない。その今までおかげではない、なら今日はここに、来ております、天のさんというかたです。ね、息子が目指しておった試験が落ちました。けれどもおかげでいうならば、わがままの子供、息子がです、その為にしみじみとした状態で病気をするようになりました。ね。お礼に出らせて頂かなきゃ、風邪をひいて、出来ませんから(?)というて、五千円といういうなら大金です。その大金のお供えをしてからまで、子供が試験に落ちた事もお礼のお届けがあっております。私金光様のご信心はね、段々そういう、いわゆる一切が神愛といわれるのもそうなんです。だから神愛を神愛と悟ったから、神愛に( ? )例えば、そうして、ね、(?)有り難い有り難いと感謝するごたるにあるけれどもまたよくよく一日を締めくくって、お祭りに、はあ、あれもお礼が足りなかった。あそこのところにお礼を申し上げねばならなかったということに気が付く。そこにお礼の足りないお詫びばかりを致しておりますという金光様のお言葉になってくるわけですよね。一つお礼の徹底その辺のところを今日は分かって頂きたい。 どうぞ。
入力者 松本正宏